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木漏れ日の空間にようこそ !!

木漏れ日の空間にようこそ !!

●カルト宗教とキリストの教え


ヤシ天を仰ぐ

カルト宗教とキリストの教え(1)
キりストの教えは手段の教えではない
光の道の教えである
取り違えて行ってても害にはならない 


■イエスキリストの教えとされる「汝、左の頬を打たらば、右の頬もさし出せ」と云う言葉は、利害損得の教えではないのです。従って相手に天罰が下ることを期待して行っても、期待通りにはならないのです。その他、悟りの心境を形から入ることによって、遂には本当の悟りとするための、手段として説かれた言葉でもないのです。相手への戒め(純粋度が問われるだろう)などの目的を持って行っても、期待通りの結果は得られないのです。又、そのように取り違えた行為であっても、全く意味とも言えないのです。



上記イエス・キリストの教えは「私と一緒に歩むなら、こうしなさい」と弟子達に説いたもので、弟子達が衆人に、そのよう教説することを目的として、説いたものではないのです。要するに教えとして説いたのであって、手段として説いたのではないと云うことです。結果として弟子達は衆人に、教えを説きましたが、予めそれを目的として、説いたのではないと云うことです。



但し、イエス・キリストは超能力者ですので、結果を知っていて説いていたとも云えますから、結果は目的と同じでもあったとも云えます。そう云う観点からすれば、目的をもって説いたとも云えるでしょう。こうゆうことは、凡人が説明すべきことではないですが、説明しないと却って、よくないと云うこともありますので、遇えて説明しだいです。



私は運命や奇跡について、自分なりの所見は持っておりますが、想像の域を出ないことを前提としても、深遠になりすぎ、気持ちや思考に混乱が生じるなど、却って害悪が生じることもあります。ですので、そこは各自で、注意いただくこととして記すことにします。ヒントとしては⇒宗教で云うところの光の作用と云うことになりましょう。



誰でも実感できると思いますが、他のためになる行いをして、光が貯まると心が明るくなります。更に多く光が貯まると、どうなるか?を考えていただけば、大概のことは、推測できると思います。心の明るい人や温かい人と接すれば、自分もそのような影響を受けると云うことは、究極なものなら人の心に奇跡が起きると云うことになります。

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白い花

カルト宗教とキリストの教え(2)
光とは何か? 無償の愛が
光に変ったとすれば理解できる
愛の自慢は減点になる

■宗教では、光々とよく言われますが、では光とは一体何か?と云うことになります。昔風に云えば徳のことだと思います。無償の愛の無償の部分が、光に変わったと考えれば理解できます。要するに、この世的には無償であるかのように見えるものでも、真実の世界では(霊的には)無償ではなく、見返りとして光が与えられているという捉え方です。以上は考え方の一つですので他にもいろいろな、考え方が有るかもしれません。この世的な根拠を持って、本当かどうかを確かめることはできません。




上記捉え方を前提とすれば、イエス・キリストの言葉とされる「汝、右の手で行った善行は、左の手にも知らせるな!」と云う教えも理解できます。どうゆうことかと言えば、人間というものは、善行を行えば行ったで、「オレはコレコレことを行った」と自慢したくなったり、恩義を着せたくなったりします。様々なマイナス要素の想いが生じるものです。言行に出せば、他人に良い感じを与えるものではないので、減点になるのは理解できるとしても、霊的には、想っただけでもいくらかは減点になるのです。(勿論理解の仕方によるものですが)



ですから、自分自身に知らせなければ、そのようなマイナス要素の想いは生じないから、知らせないようにしなさい。という意味ですが、真意は善行を行っても、マイナス要素を想わないようにしなさいという意味だと思います。しかしこれは容易に出来ることではないのです。言葉に出したり、行動に出したりしないことは、それ程むつかしいことではないのですが、自尊心を満足させたり、自負心を助長するような想いを抱いたり、自己満足の思いに浸ったりすることを、完全に排除することは、凡人には容易にできるとではないのです。奇跡を起こせるくらいの人にしか、出来ないことなのです。



以上を前提とすれば、前記GLAの指導者たちが、犯した過ちはこの徳を積みたいと言う気持(宗教的な欲望)の現れであったとも云えます。それは欲望でもありますが、欲望は、意欲と云うものの原動力になるものですので、無条件で批判することはできません。しかし、他人に被害を与えるようなことを、仕出かしては誤ったしか言いようがありません。では何が彼らを誤らせたかと言えば、私は、彼らにはイエス・キリストの戒めの言葉が届かなかったのだと表現するしかありません。

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カルト宗教とキリストの教え(3)
愛の教えは賞罰の基準にはならない
先達のお教えを逆用して、勝手な
霊的因果を創りだし賞罰をつける

■宗教が堕落すると、この世的な賞罰をも、自分達で勝手に造りだしたり、捏造した霊的法則で説明したり、先達(キリストや釈迦その他)の言葉を歪めて解釈するなどなど、自分達で、社会害悪をたれ流しておきながら、それは因果応報だなどと云う勝手な根拠を付けて、個人的なことに転嫁しようとするのです、とんでもない現象が起こります。



何事に関しても人それぞれの理解の仕方はあるもので、他人に弊害をもたらすことがなければ、自分勝手な理解も、勝手な思い込みも咎められるものではないのですが、人間社会は網の目のような繋がりの中に、自分も存在しているのですから、道理、筋道に反する考え方は真理にも矛盾を生じ、網目の繋がりを保つことができなくなります。矛盾を抱えた理解の仕方や、勝手な思い込みは必ず他に、何らかの弊害をもたらすものです。



又何事を実行するにしても、実行すること自体は咎められることではないのです。私自身好奇心、探究心?の強い人間で、さまざまな事に、頭を突っ込んでは失敗しております。しかし、他人に被害が及ぶようなことはしていないつもりです。この事件に関しては家族にとっては、被害が生じたか?どうか?は判断のしようがありません。受け止めようにより、異なるからです。



家族というものは、限度は有るとしても、苦楽を共にする意識がなくては、意味がないものと思います。当事件については、「私の責任だ!」とも云えるのですが、ここで云う責任とは、家族の長としてと言う意味になります。だから私は、相手方に責任を取らせなくては、家族に対して面子がたたなくなり、死んでも死に切れないと云う気持ちでありますが、そう云う状況は普通、個人的な事柄に限るものです。



しかし、当事件に関しては、社会の問題として当てはまるのでは、「何をか?云わん也!」であります。社会問題に属することを、個人的に背負わなくてはならないのでは、やりきれません。原因が、私に有るのではなく、堕落した宗教をはじめ、それをキッチリ咎められない社会に有るのは明白です。その根拠の一つには、人権擁護委員会に提出した、調査依頼に対してなしのツブテがあります。

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カルト宗教とキリストの教え(4)
悪魔は一目で「オレは悪魔だ!」と
判る姿はしていない。人間の心の中に
いて、利害損得を操る霊人かも・・

■たとえ宗教と言う文科系に属する事柄で、専門分野としての教育は受けていなかったとしても、東大の工学部を卒業した人間に、(GLA谷口健彦)何故、自己の心の中の問題である絶対的なことと、相手との相互関係の問題である相対的なこととの、区別が付かないのか不思議でならないのです。
東大工学部と云えば、思考能力の神様?みたような人の集まりではないか! しかも、トヨタという会社で将来の社会的地位を約束された職を捨ててまでして、宗教を志した人間に分からない筈がないと思うのですが 、何とも不思議なことであります。

外部に何ら支障を与えない、自分の心の中の問題という絶対的な事柄なら、神に謝ろうが、教祖に懺悔しょうが本人の自由なのです。イエス・キリストが、弟子達や衆人から懺悔を受けたかも知れない人達の罪を、我がこととして神に謝ったとしても、それはイエス・キリスト自身の心の中の問題であって何ら問題は起きないのです。
東大工学部を卒業した人間にそれとこれ(自分が犯した罪を、神格の教祖にあやまること)の区別が付かないだけなのです。ですから特に私を困らせる為とか、いじめてやろうと云った、悪意をもって行った一連の行為ではありません。

さらには人柄としても悪いとも思われないのです。しかし結果は悪意をもって行ったことと同じになっているのです。頭がおかしくなったとしか解釈のしようがありません。私はこのような現象を、一般的には「魔がさした!」などと云われている、魔の指した現象であると捉えております。
一般に魔がさしたなどと云われている現象は、一時的なもの、短期的な現象に付いてのみ言われている様子ですが、彼に関しては、長期にわたって目覚める気配もないのですから、悪魔に支配されてしまったと表現した方が正しいかも知れません。

悪魔というものは、象徴的に捉えたものであり、例えて言うならば、特定の個人ではなく、複数の人達が絡み合い、つるんで起こした、悪しき事柄や事態を捉えた表現とも言うことができると思います。幸福の科学のアニメ映画で紹介されたような、特定個人が、一目でオレは悪魔だと、通常人に判るような姿形はしていないものと思います。子供だましのようなものではないのです。
一目でそれは悪いことだと判るような、行いもしないものと私は考えております。但し心眼の開けている人が見れば、複数の人間の欲得利害を操ってこの世に悪しき現象を創りだしている、特定霊人の姿が見えるのかも知れません。

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白い花

カルト宗教とキリストの教え(5)
キリストの祈りは神に慈悲を請う
ものであって、責任を神に代行し
取ってもらうためではない。

■こんなところで、私がイエス・キリストを解説しなくてはならないこと自体が、おかしな話ですが・・。そのことはお赦しいただくとして、イエス・キリストの教えはハードルが高すぎて、凡人がついて行くには容易なことではないため、仲介要素?として一種の慈悲を乞う意味で、祈りが存するのではないかと思います。以上についてはキリスト教に限ったことではなく、宗教全般について云える事だかも知れません。


  
又、キリスト教は教義による宗教で、偶像崇拝の宗教ではないのだから、祈るにしても教義に従った祈りであるはずです。教義による宗教であるなら他の宗教についても、概ね同じことが言えるのではないかと思います。同じ祈るにしても「我の説くもののみが宗教である・・」などと云った、分けの判らないことを前提として、過ちや間違いが起きれば、神に許してもらう為に祈ると、云うこととは意味が違うと思います。



祈りとは教えの意味は分かるけれども、実行が難しいとか、自分の抱える状況下では実行不可能である。と、云った意味でもって、自らの不徳を神に詫びるとか神の助力を乞うと云うものであると思います。犯した過ちを神に責任をとってもらうために、祈ると云うものではないのです。同じ赦しを乞うにしても、犯罪に比敵する過ちを犯しておきながら、それを神に許してもらうために祈るなど、とんでもないことであり、邪教を通リ越して悪魔の宗教と言わざるを得ません。



尚、自己矛盾を造り出せば、この世的に犯罪になる、ならないは別として何らかの不都合が造り出されます。だから、絶対的神格を持つ魂は、この世に降臨しても自己矛盾など造らない筈です。少なくても気付いたら訂正しなくてはいけません。人に指摘されるようでは、神格者としての威信は保てなくなります。言い換えれば自己矛盾を作り出すような魂は、神格の魂しいではないのです。「我は神格の魂である」と言っておきながら自己矛盾を作り出せば、それは偽者と見て間違いないでしょう。



神格の魂と云えども、肉体を持ってこの世に生を得れば、間違いも犯すこともあるのであれば、この世のルールに従って生きなくてはいけないのです。又、個人としてなら間違いなく、教説し、間違いなく生きた人も少なくないと思いますが、組織の長として、メンバーを自分の思想オンリーで、この世のルールや規則を度外視して、間違いなく導き、間違いなく組織を運営するなどと云うことは、神業と云うしかありません。間違いが起きることは当然と予測できるのならば、やはり、この世のルールや規則を尊重しなくてはいけなかった。ではないのか?

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